2017/11/30(木) 00:07:22



 車窓の外を灰色の空が流れて行く。垂れた凍雲は温度を忘れた鉄のようで、いくつも連なる鎖となって街を覆った。

 耳に挿したイヤフォンは、今日のためのプレイリストを延々にリピートしていた。数時間後に控えたリハーサルで披露しなければならない。

 ひたすらに聴き込んだ音楽は、意識しなくても頭の中にシナリオを描き起こした。

 冒頭、中盤、クライマックスから、ラストまで。一曲が終わるごと、歌唱に対応するシーンが浮かんでは消える。

 恋に生きて、恋に死ぬ。一貫して、彼女は男を止まり木みたいに扱った。ひとときの気持ちに身を任せて、移ろいだならまたよそへ。

 演じるのではなく、本当に私が強く潔くあれる彼女だったなら。実現するはずもない仮定が、私の心のセンチメンタルな部分をかりかりと引っかいていた。

「西川。どうかしたか?」

 不意の低いバリトンボイスが、メゾ・ソプラノの歌声をかき分けて私の鼓膜を揺らした。


  2017/11/30(木) 00:07:44

 私のどこを見て、なにを感じられたのか。表情を変えたつもりはなかった。とりわけた仕草も、なかったはず。それでも気取られるのは、私が鈍いだけか、あるいは彼の濃やかさのためか。

「いいえ? どうもしてないわ」

 耳が半端に塞がっているせいか、自分の声が裏返ったように聞こえて恥ずかしくなる。私は視線をまた窓の外へやって、それから少しでも聴覚のみを研ごうと目を閉じた。

 そうか、と呟く彼の声も、不器用な私の耳は丁寧に拾ってくれる。

 想いを持て余していた。ひもとけば単純なはずなのに、複雑にこわばった感情が私を絡めて離そうとしない。私は、彼女のようには自由にどこへも行けなかった。


  2017/11/30(木) 00:09:42

 スパンの長い無限ループが幾度めかのスタートを切ったあたりで、トヨタ製の古い社用車は揺れを止めた。

 久しい故郷の地を踏んでみて、痺れるほどの大気の冷たさに身をすくめる。温暖化と有識者が騒いでも、冬のありさまは依然変わらない。どころか、むしろ厳しさを増しているようにさえ感じた。

 ひと昔前に遡れば趣味のために足を運んでいた歌劇場が、今度の舞台だった。そこに今は仕事として訪れている。それはアイドルながらに歌唱力を認めてもらえた結果で、考えてみると、曖昧な記憶がかすかな感慨に変わった。

「──西川さん入りまーす」「おはようございます!」「どうぞこちらへ──」

 以前とは異なって裏口から入り、流れ作業で控え室へと通される。予定は衣装の最後の合わせと、通し稽古。

 簡素な室内には、内装にそぐわない真紅のドレスを着たマネキンが立っていた。左胸にはワンポイント、カッシアの黄色い花が皮肉なほど綺麗に咲いている。


  2017/11/30(木) 00:10:11

「外で待ってるよ」と彼は言った。

 ええ、着替えが済んだら呼ぶわね、と応えて、着古してややくたびれた暗いスーツの背中を見送る。振り返ることなく彼は速やかに視界から消えた。

 スタッフの手も借りて、マーメイドラインの衣装で身を包む。腕をぴんと伸ばし、体をひねってみる。問題はなさそうだった。私のためのオーダーメイドではないそれは、しかしあつらえたようにぴったりと体に合わさった。

 鏡をのぞいて、口角が上がる。この姿なら、もしかしたら──なんてことを思ってしまう。どうしようもないわね。笑った理由には、自身への呆れと嘲りしかない。

「よくお似合いですね」

 スタッフの一人がおべっかを言い、つられるように周りも続いた。アダルトな雰囲気がいいですね、西川さんにマッチしています。すごく、大人っぽいです。

 私はあらためてにこやかに笑って、

「ありがとうございます」と言った。それが立場のため、務めで吐いたお礼の言葉だったことは、わからないように。


  2017/11/30(木) 00:11:27

 今日は本番ではない。それでも最低限の身だしなみとしてメイクを直し、装いを整えてから彼を呼ぶ。

 自ら行こうとすると、スタッフに止められた。私、呼んできましょうか。別にいいと応えかけたが、彼のことだ、建物からも出ているかもしれない。ドレスを汚してはいけないと自意識が歯止めをかけ、結局は言葉に甘えた。

「……お願いします。たぶん、玄関口を出たあたりにいると思いますから」

 やや時間を空けて彼は戻ってきた。ひらひらと振っている手の指先は赤く、さっきまでとは違って、植物が焦げたようなにおいをほのかにまとっている。屋外にいるという私の予想はどうやら当たっていたらしい。


  2017/11/30(木) 00:12:11

「思ったより早かったな」と彼は言った。

「ええ。スムーズに着替えられたから。スタッフさんのおかげね」

「そりゃよかった。……ん、サイズも合ってるな。なにか不具合はあるか?」

「いいえ。平気よ」

「よし」彼は朗々と頷いて踵を返す。「じゃあ舞台の方に行っておこうか」

 …………。

「ええ」と私は言った。やや間があったことを気にしない彼が、もどかしい。廊下の床の硬い弾力が私のヒールを押し返す。その後押しがありがたかった。

「予習は完璧か?」

 先行く彼が何気なくたずねかけてくる。車内での様子を気にしていることがありありと伝わってきた。

「問題ないわ。たぶん、いつも通りだから」

「そうか。ならいいが」

 逆接の言葉尻に含みを感じるが、今度は嘘はついていない。間違いなくいつも通りだ。……彼とふたりきり、心乱れてしまうのも。それでも平然とする私の様子を、彼が察してくれるのも。そして、私が強がることすら、いつも通り。

 思い起こして哀しくなりそうだった。その関係はまるで両想いのカップルのようなのに。しかし私は素知らぬふりをして、彼の背中に追いすがる。


  2017/11/30(木) 00:12:45

 ここのイベントホールは決して大きくなかった。最低限度の拡音機だけが整備されたこぢんまりした空間に、こざっぱりしたえんじ色の座席が並ぶ。

 天井の舞台照明が顔を照らした。暑く、眩しいなと見上げた私に、電子的なシャッター音が届けられた。音のした方を見ると、彼がスマートフォンのカメラをこちらへ向けている。

「もう」あからさまに、私はくちびるを尖らせてしまう。いきなり撮るなんて。「マナーに欠けてるんじゃない?」

「すまんすまん」

 彼はくぐもった声で笑い、スクリーンに映る私をこちらへ見せた。

「いや、ついな。見ろ、立派な女優さんだろ。絵になるよな」

 顔に手をかざし、頭上の光を仰ぐ赤装束。なるほどたしかに、それは見栄えのいいもののようだった。発達した機器は素人の手にもブレを許さず、完成した一枚の商用ブロマイドのよう。

 しかし、寄ってみて、そこに映る自分の顔をも見て、私は思わざるを得なかった。

 ──ああ、不恰好ね。紅く美しいスティレット・ヒールの、その高いかかとに無理やりに背伸びさせられた子どもがそこにいる。言うなら馬子にも衣装かしら。


  2017/11/30(木) 00:13:29

 ほどなくして、リハーサルの準備が整った。そこかしこを歩き回っていたスタッフたちは隅へ固まり、彼もまたその中に混ざっている。私を含んだ演者だけが舞台の上で照らされた。

 私の出番は冒頭から。監督のハンドサインに従い、組まれた煙草工場のセットの中を大きく横切る。深く息を吸いこんだ。

 恋は野の鳥。
 気まぐれ気ままよ、誰も手懐けられはしない。

 たとえ直前まで心揺らいでいようとも、長い期間練習を積み重ねた歌を私が失敗することはなかった。出だしから丁寧に歌い上げる。ちらと視界に入った人の顔は、みな一様に満足げ──彼でさえも。

 しかし、私は乖離を感じずにはいられないのだ。目に見えたミスを犯さないとしても、歌詞も、演じてくれと任された役柄も、西川保奈美からは遠くかけ離れているように思えてならない。

 私の気持ちを置き去りにして、歌は進んでいく。自信に溢れる女の歌の──私に想い込まれたなら、せいぜい用心することね? ──いっそ清々しいぐらいに傲慢な歌詞は、紡ぐごとに私の中を違和感で満たす。

 簡略化した歌劇の、私の役柄はファム・ファタール。ひとつの演目のかなめとなるパートを任されたのは、ひとえに名誉なことだ。

 しかし、運命の女、あるいは男を破滅へ導く魔性を意味するそれは、どう考えたってふさわしい冠ではなかった。私が名乗るにはあまりに器が足りていない。

 自身の恋心さえ十全に扱えない私なのだから。
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10   2017/11/30(木) 00:14:20



 リハーサルは問題なく終わった。だとすれば、演者ひとりの気持ちまでは拾ってくれない。本番もよろしく、とご機嫌な監督に愛想笑いを返して、私と彼は駐車場へ戻った。

 三時間を越す稽古を終え、太陽は西の空から世界の色を変え始めていた。‪果ての果てまで澄んだ大気の中では、雲の焼け付きさえも鮮烈に眩しい。

「明日は晴れるといいんだがな」と彼が言う。

「どうかしらね」と応えた。「夕焼けは晴れ、とは言うけど」

「雲、出てるもんなあ。微妙なとこかな、っと」

 言いながら、彼はビジネスバッグから取り出したキーを車の鍵穴へ差し込む。いいかげんキーレスタイプの車に替えてもらったら? と以前に何度か提案したことがあるが、俺はアナログが好みでな、と毎度からから笑われた。

「疲れてたら寝ててもいいぞ。着いたら起こすよ」

「……ええと。道、わかってるの?」

 明日の本番のため、今日は事務所のある東京へは帰っていられない。近くでホテルを取ったと言っていたが、おそらく彼はこのあたりの地理には明るくない。


11   2017/11/30(木) 00:14:37

「いやあ、わかってないが。まあでも大丈夫だろ。スマホで全部調べられるし」

 彼はたどたどしい手つきでマップアプリを開いていた。古い車種には備え付けのカーナビさえなく、外付けのスマートフォン用ホルダーがダッシュボードに貼り付いている。

 よし、と声を漏らし、彼はホルダーに案内を始めた端末をセットした。

 デジタルオンチな運転手に一抹の不安を覚えないでもなかったが、事務所を発った朝は早く、道中は曲の確認で追い込みをかけ、リハで体力も使った。正直に言って、疲れている。行きは無事に来られたのだから。

「……じゃあ、悪いけど」

 本当に悪いな、と思った。疲れているのはきっと同じだろうに。しかし彼は軽快に笑って、

「遠慮なんていらないさ」とエンジンをかけた。


12   2017/11/30(木) 00:14:56

 ────彼は、私の前では頑ななまでに煙草を吸わなかった。

 その徹底っぷりは異常なぐらいで、聞いた話では、私がアイドル活動をする日ならば(たとえレッスン場に直接行き、会う機会もなく直帰するような場合であっても)そもそも煙草もライターも持たないようにしていたほどらしい。

 だから私は、数ヶ月前までは彼が喫煙家だということをつゆほども知らなかった。知ったきっかけはひどくくだらない。ただ私が休日、気まぐれに事務所に顔を出して、屋上で煙を吐いていた彼を目撃したというだけ。

 見つけたときは気の毒なくらいに狼狽していた。

 良い目では見ないけれど、別に極端に嫌煙なわけでもない。言い訳を並べる彼にそう伝えると、心から安心したように、今度は透明な息を吐いた。嫌われると、困るだろ。パートナーなんだから。と彼は言った。

 だったらやめればいいのに。私が来る日は我慢できるのなら、そう中毒性にも染まってはいないはず。不思議そうな私に対して、簡単にはいかないんだよ、と彼は苦笑いをしていた。

 発覚して以来は、徹底した事実の隠蔽はなくなった。私の前では依然吸う姿を見せようとしないが、席を外して一服、ということは珍しくない。ふらりと姿を消して、そのうちに煙の匂いだけを残して帰ってくるようになった。



13   2017/11/30(木) 00:15:35

 ──こんなことを起き抜けに思い出したのは、鼻孔に感じた刺激に驚いたからだ。

 うっすらと目を開けると、世界は黒々と塗りつぶされていた。飛び込んでくる勢いのいい光はなく、虹彩は少しずつ闇に馴染む。

 年季の入ったシートはクッションがへたっていて、ずっと同じ体勢で寝ていたせいで腰と背中がこわばっていた。体に感じる重力は真下へだけ。……停車中?

「……あ。起きたか」

 体勢を変えたことで気づいたらしい。運転席側の窓際あたりをふらふらしていた赤い灯火は、彼の手の中の携帯灰皿に飛び込んでその一生を終えた。

 眠ってしまう前は、まだ日はそれなりの高さを維持していたけれど。秋の日は釣瓶落とし、だとすれば、冬の落日がなお早いのは道理かしら。そう納得しかけて、

「今……えっ? 七時?」

 車内時計を確認して驚いた。かれこれ二時間も寝ていたのか。冬で日没が早いも何もない、この時間なら夏だって夜だ。

「……ホテル、まだ着かないの?」

 たずねると、彼は困ったような声色で言った。

「すまん。迷った」

 呆れは一周すると、どうやら消えるらしい。私はほとんど吹き出すように笑って、「もう……」とだけ応えた。


14   2017/11/30(木) 00:15:57

 ナビの側道へ入る指示に従い損ね、誤って高速に乗ったそうだ。マップ上、目的地を示すフラッグからはスタート時より逆側に離れてしまっている。

「いや、ほんと申し訳ない。でもほら、わかりにくくないか? これの指示。三百メートル先を左、とか言われてもだな、左折なのか左の側道に入るのかいまいちわからんし、そもそも走ってる最中に距離のカウントなんてできない」

「わかったから。……えっと、高速からはもう降りて、今がここだから……そうね、下道で行ってもよさそう」

 子どもっぽく言い訳を並べる彼をなだめつつ検索しなおしたところ、ゴールへはそれほどの直線距離もない。これなら一時間もあれば着きそうだ。

 彼の左手が、慣れた挙動でクラッチをローに入れた。

「明日本番だし、早めに休ませてやりたかったのになあ」

「別にいいわ。ホテルに着いて、夕飯食べてもせいぜい九時ぐらいでしょ。十分早いじゃない」

「西川は優しいな。身に染みるよ……ん? 次、右?」

「右の側道、ね。アナログ地図なら迷わないのにナビだと途端にダメになるのはどうしてなの」

「……俺にもわからん。歳かねぇ」ため息と一緒に吐き出すように彼は言った。


15   2017/11/30(木) 00:16:19

 わずかに開いた運転席側の窓から、夜の冷気が忍び込んで私の頬をなぞった。小さく身震いすると、彼はあわててパワーウィンドウを上昇させる。

「悪い。閉め切れてなかったな」

 基本的に徹底して濃やかさの行き届いた彼にしては、珍しい。冬の夜に窓を閉め忘れていたのも、眠っていたとはいえ、私のそばで煙草に火をつけていたのも。表情には出さないまでも、道に迷ったことを気にしている。

「……ふふっ」

 小さく笑うと、彼は「笑うなよ……」と苦い顔で言った。

 狭かった側道は、やがて大きな幹線道路へと合流する。わずかなウインカーのちらつきを残して、レトロでミクロな車体は窮屈さから解放された。


16   2017/11/30(木) 00:16:38

「海が見えるな」と彼が言った。「昼間なら景色も良さそうだ」

「海沿いなのは、そうね。でも冬の海よ? だいたい灰色」

「天気は晴れを想定しようか。まあ、この時期曇り空が多いのはその通りだけど」

 今の海は真っ黒だった。凪いでいるから波もほぼない。空との境界も消えた扁平で単色の世界。日が昇っても色彩を持てないなんて、それはどれほど虚しいことだろうと同情しそうになる。

 ……しかし、そうであったとしても。

 幼いころに訪れた経験のあるビーチが、眼下を通り過ぎた。フラッシュバックしたのは当然のように夏の光景。青色に染められた海に、極彩色の人々が遊ぶ。

 いずれ巡りくる季節を待てば、海は色づく。だからきっと、この陰気なほどの寒空も平気で耐えられているのだろう。
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17   2017/11/30(木) 00:17:03

 チェック・インが遅れる連絡は、私が眠っているあいだに済ませていたらしい。お待ちしておりました、と嫌味なく言えるコンシェルジュに荷物を預けて、私は彼についてエントランスに入った。

 スーツ姿の男と、私服姿の女の二人組。チェック柄のスカートに、ベージュのトレンチコート。実年齢よりも上に見られがちな私の顔にこのクラシカルなコーディネートならば、たぶん成人しているようにも見えただろう。

 しかし、二人並んで宿泊施設に入る私と彼を恋仲だと勘ぐる人はきっといない。

 それでも当然、部屋は別だった。いっそ薄情と言いたくなるほどに濃やかな彼は、邪推の起こりうる余地は許さなかった。

 ひとり小綺麗にメイキングされたベッドに腰掛けて、荷をほどいた。

 ……肩がこった。車移動が長かったこともあるし、なによりずっと彼と行動を共にして、肩肘を張っていたことが大きい。それが無駄だとわかっていても、彼の前では気負ってしまう。


18   2017/11/30(木) 00:17:54

 脱いだコートから、ほのかに焦げたようなにおいがする。無粋なぐらいに現実的なその残り香が、ひどく鼻の奥を突くようだった。

 普段は私に届かない、アメリカン・スピリットの煙のにおい。徹底して私には触れられないようにと遠ざけられていた、大人だけが楽しめるらしい娯楽の形。

 胸にかき抱いて深くにおいを吸い込んでみると、むせ返りそうになる。

 子ども扱いを、されているのよね。ずっと、ずっと。その事実が苦しい。いくら大人びていると言われようと、私は世間的にはまだ少女だから。

 今日のたった一日だけでも、彼との距離を何度も感じた。人の身では決してどうすることもできない時の隔たりが、やみくもに私に現実を叩きつける。

 大人っぽいと評されてしまうのは、私が大人じゃないから。私の前で煙を吐こうとしないのは、私が大人じゃないから。

 デジタルに馴染まずアナログを好むのは、彼がそれに慣れた大人だから。寒空の下で煙を吸うのは、彼が私を気遣う大人だから。

 一緒にホテルに入ったとして、誰もなんとも思わない。そうさせている一因は、私と彼のあいだにある見えない距離に他ならない。


19   2017/11/30(木) 00:18:19

 もういくらか生まれるのが早かったなら、──私が、きちんと大人だったなら。彼の私を見る目は違っていただろうか。

 あるいは、もっとずっと、幼かったなら。私はなんの躊躇もなしに、隔たりなんて感じる暇もなく、この恋を叫べていたのかもしれない。そうであれたなら、たとえひとときに傷ついたとしても、煩わしく悶えることはなかった。癒えてしまえば振り返ることも、きっとなかった。

 大人びて見えるから、なんだというのか。
 ……なんにもならない。

 明日になれば、一歩彼へと近づける。しかし、彼もまた一歩私から遠ざかる。年齢の差は、先行く彼がその時を止めない限り縮まらない。

 今の私は、生殺しだ。誰が悪いわけでもなく、強いて言えば私が悪い。ただ私だけが私を縛って、羽ばたけないことに勝手に傷つき喘いでいる。


20   2017/11/30(木) 00:18:46

 窓の外を、白色の影が横切った。ついと寄ってガラスの境界を引いてみると、沁み渡る冷たさがまとわりついた。闇の中を裂いて飛ぶ──ユリカモメか。なんら珍しくもない冬の渡り鳥。

 恋は野の鳥。気まぐれ気ままで、好き勝手。ふらりと現れ想っては、すげなく払ってまた余所へ。

 数ヶ月も前から明日のために歌い続け、脳裏に刻み込んだ歌詞が口をついて出て行った。

 好む日和の地を探して、旅を繰り返すあなたみたいね、ユリカモメ。私もそうあれたなら、どんなに良かったろう。自意識と常識にがんじがらめにされて、ひとつ想った彼の元へさえ飛んで行けない私の恋。

 もはや自虐的にさえ思える歌を、私は夜に響かせた。

 宵の窓辺、羽ばたく鳥に想いを重ね、恋の歌を口ずさむ少女。言葉にすればドラマティックなその光景に、しかし迎えにきてくれる彼はヒロイズムのかけらすら持ち合わせてはいない。

 ノックの音に呼ばれ、私は夜空に見切りをつけた。表情を、戻さなければ。この気持ちを知らない彼は、なんの気もなくディナーに誘ってくれるのだろうから。


 迎えた彼からは、苦いにおいがした。





おしまい。


引用元:http://wktk.open2ch.net/test/read.cgi/aimasu/1511968013/